消費的バルーン思考

おとなはウソつきではないのかもしれない

 この文章が好きでたまに読んでいる。

人という物語 - 伊藤計劃記録 はてな版

 人間は現実を様々な器官によって「認識」し、それを脳で「編集」し、物語として記憶している。みたいな話だと思う。わたしたちが考えている「わたし」とは各々によって作り出された「フィクション」である、というわけです。

 「本当の現実」について考えたことがある人は多いと思う。人間が感じているのはすでに起きた過去の現実での出来事なわけで、わたしがいまキーボードを触っている感触もコンマ数秒前に、あるいは、極端なことを言えば数億年前とかに触れたキーボードの感触を今感じている可能性だってある。そして、その過去にこそ「本当の現実」が存在している。わたしたちはそれを正しい形で見ることが決してできない。世界が本当はどんな色でどんな感触でどんな匂いなのかもわからない。火の鳥復活編。

 人はお互いが「本当のこと」を言っているという前提で意思疎通を行っているはずだ。そうでなければ社会はたちまち立ち行かなくなってしまうだろう。日常が人狼ゲームだったら狂う!だから、人は他人が言ったことをある程度言ったそのままに解釈する。
 「あ、アンタなんか、だいっ嫌いなんだからね///」と言うセリフがあったとして、これを創作のキャラクターが言っていれば、「本当はそうではないんだな」と解釈する人が多いだろう。だが現実の人間が自分に向ってこれを言ってきたらどうだろうか?私は多分「本当に嫌われているんだな」と思ってしまう。現実でこんな回りくどい表現を使うのは「おかしい」。私の目の前に立っている人はおかしな人ではないはずだから、「相手は本当のことを言っているんだ」と解釈してしまう。

 私のブログを読んでいる人は私の文章を、ある程度の正直さを持ったものとして読んでくれていると思う。自分でもある程度の正直さを持って書いていると思っている。だが、実際のところはどうだろうか?過去の記憶を書くにあたって、補完や編集、脚色は意図的に行っている。「全部」を書けるわけではないからだ。
 しかし、そもそもその根本の記憶というものはどれほど正しいのか?自分でもおぼろげな記憶をたぐって書いているわけで、その感情は、その怒りや悲しみは、本当に存在していたものなのだろうか?本当はそんな「思い」は当時存在しておらず、掘り起こされた記憶の断片から「自分に都合の良い物語」を創作しているのではなかろうか?それを確かめることはできない。正直な人間が「本当のこと」を言っているとは限らない。
 今の思いですらもそうだ。わたしが今思っていることは本当に今わたしが思っていることなのだろうか?「わたしはこれが好きだ」本当に?「わたしはこれが嫌い」本当に?人は自分のことすら曖昧にしかわからないのに、どうして他者と分かり合うことが出来ようか?自分がわからないからこそ、他者という物差しとの交流を欲するのかもしれない?

 意思疎通というのはただでさえ難しいんだから、あんまりひねったりせずに自分が思っていると思っていることをそのまま伝えられたらいいんですどね。それは結構怖いから、ごまかしたり、おどけたり、逸らしたりしてしまう。