消費的バルーン思考

なるばい!

 クリスマスなので母方の祖母と従姉弟家族のところに行ってきた。Switchで遊んでいる従弟の手にネイル(彼の姉の手による)が施されているのを見て、祖母が「気持ち悪いからやめり!オカマになるばい!」と言っていた。*1   

 前時代的な反応であると思う。というよりはこれを「前時代的だ」と感じるように自分はなってしまった。が、同時に安心もした。皆が皆『先進的な考え』を持っている世界はかえって窮屈である。だからこうした『変わらない人たち』の存在に安心する。人に寿命がある以上、社会通念は否応なく変化してしまうのだから、急いで無理矢理に変えようとすることないじゃないかと思う。しかしそれは、あるいは私が『弱い側』の人間ではないから言えることかもしれない。

 これを微笑ましい家庭の一幕であると思えた自分に安心したとも言える。自分もそこそこ古臭い感性を持っている自覚はあるが、それを変えようとは思わない。どうせ勝手に変わるから。男性のネイルとかメイクにはまだちょっと抵抗あるし。

 全然関係ないけど小学生のころ年長の女子に髪の毛を結ばれたり薄いメイクをされたりしていじられた経験があるのを思い出した。嫌がって逃げたり追いかけられたりしたが、内心はまんざらでもなかった。むしろフェイバリット。

*1:従弟は「ならんし」と返していた

rainをプレイした

 『rain』というPS3専用ゲームを遊んだので自分語りを交えつつ軽く感想を書きます。なんでわざわざそんなことをするかというとそれなりに思い入れというか愛着があるゲームだからです。高校生くらいの時になんかのきっかけで知り、それ以来ずーっと心の片隅でやりたいなあと思っていた。その時にプレイ動画を最後まで観てしまったので初見ではない*1。深夜で課題が終わってないのに6時間くらいのプレイ動画を一気に見てしまって絶望してた様な記憶がある。やるべきことを先延ばしにする癖はその頃からいっさい治って無くて悲しい。無職期間に中古のPS3を買ったので、ダウンロード版を購入したが、それから一年くらい寝かせてしまった。というのも、しとしとと雨が降ってる休日の夜にゆったりとプレイしたかったんです。そういうゲームなのでそういうのを大事にしたかった。というわけでちょうどいい日だったのでプレイしました。

↓観て


youtu.be

 3分あたりからの、タイトルが浮かぶとともに月の光が流れはじめる演出がこれまで遊んだゲームの始まり方の中でもかなり上位の好きさです。情景に合わせたテキストの置き方も自分で動かせる絵本みたいな感覚になって大変良いです。体が透明になって雨の中でしか姿が見えないというシステムも世界観にマッチしていて美しさを感じますね。DarkSouls、OuterWildsなどのような、システムと世界観がかっちりかみ合ってるゲームは機能的な美を感じるので好物です。まあ、それらとは違いストレスなくサクサク進める難易度なのでありがたかったです。クリア時間も4~5時間程度。このくらいのボリュームだと少ないとか言われがちですけど、色んなゲームやりたいので自分的にはこのくらいがちょうど良いですね。ストーリーは絵本的でふんわりしておりそんなに語るところはないんですけど、この塩梅のボーイミーツガールがかなり好物なのでとても楽しめました。エンディングも「こういうのでいいんだよ」って感じです。また、PS3時代のこのちょっと茶色くてぼんやりした感じのCGグラフィックも良いですよね。ローポリのスタイライズドなCGも良いですが、自分はこういったのが好きです。
 

 万人におすすめできるめっちゃ面白いゲームかというとそうではないと言わざるを得ないんですけど、総合的な好みで言うととても好きなゲームです。PS3を持っている人はぜひやってみてください。調べたらこのゲームのディレクターさんは現在『TokyoStories』というゲームを開発しているらしい。楽しみです。

 

さむい

*1:確か当時配信ガイドラインで終盤の配信が禁止されていたのでそれはルール違反の動画

ティアキンをやっていた時のメモ

※ティアキンのネタバレを含む

 3か月くらい前にティアキンをプレイしていた時のメモを載せる。発売からまだ4か月しか経っていないのに、なんかもう遠い昔のように思う。

 クライマックスはコントローラーを握ったまま号泣してしまったくらいに心を揺さぶられたゲームだった。ドラマチックな部分が本質のゲームではないと思うが、該当のシーンはプレイ動画等で見るたびに感動してしまう。(陳腐な感じになるのであまり『感動』という言葉を使いたくないが、使わざるを得ない)とはいえその感動ですら時間とともに少しずつ薄れていってしまうもので、それは良くもあり悪くもある。

 今記憶を元にまとまった感想を書いても、なんか嘘になってしまう感じがあるし、あまり考える気にもならない。とにかく、その瞬間に思っていたことを書きとめて保存しておくのっていいよねという話。


以下、メモ(原文ママ



・地面に接触するギリギリでパラセールを開いてバサってするのが好き

・赤き月がわかっていても結構不快なのですごい

・貴重な武器がずっと新品のままポーチにある

・積んである鉄箱を攻撃すると落下してくる上の段も一緒に破壊されるのがきもちい

・キャラクターがたまに妙にしっくりこない単語使ったりするのなんなんだ

・雨の音こんなに聞こえたっけ

・賢者4人との闘技場楽しいタゲが分散するので楽

・倍加するという言葉選びに苦労してそう

2023/06/04

・龍の背に乗れるの感動

・龍おっせぇ!

・泉の最寄りの深穴から地下に行ってる

・マキューズの地下は採石場

・一旦引いてくるタイプの敵モーションうざい

・ボコブリンがこちらに攻撃してきた時に煽ってきたりするの上手いなあと思う。めちゃくちゃイライラする

・女神像はそれぞれの自我があるのだろうか

2023/06/06

・ドラゴンの移動経路マップに表示してクレェーーー!

・オルドラを探すのにとても手間取った一周に30分以上かかってないか

イチカラ村のリフト破壊しがち

・コーガ様律儀に宝箱置いておくのなんで?忍術で隠してあったの?

2023/06/07

・最後の石碑はどこにあるのだ

・ボスボコを牢屋にぶち込む楽しい

2023/06/09

・イーガ団支部が全く見つからず彷徨っていた

・洞窟の中だったので見つけにくかった

2023/06/10

・コーガ様いい

・ストーリー好き

・自分の信念のために人外化するのいいぞ

・ミネル様の声がいい

・ゴーレム使いにくい

2023/06/16

・ラスボス手前まで来たのでチャレンジと祠と地下埋めをしている



メモ終わり


 こういったメモを見返すと自分はちゃんとオタクなんだなという感じがする。あるいは『情熱的なオタク』のロールプレイでメモを書いているのか。

おとなはウソつきではないのかもしれない

 この文章が好きでたまに読んでいる。

人という物語 - 伊藤計劃記録 はてな版

 人間は現実を様々な器官によって「認識」し、それを脳で「編集」し、物語として記憶している。みたいな話だと思う。わたしたちが考えている「わたし」とは各々によって作り出された「フィクション」である、というわけです。

 「本当の現実」について考えたことがある人は多いと思う。人間が感じているのはすでに起きた過去の現実での出来事なわけで、わたしがいまキーボードを触っている感触もコンマ数秒前に、あるいは、極端なことを言えば数億年前とかに触れたキーボードの感触を今感じている可能性だってある。そして、その過去にこそ「本当の現実」が存在している。わたしたちはそれを正しい形で見ることが決してできない。世界が本当はどんな色でどんな感触でどんな匂いなのかもわからない。火の鳥復活編。

 人はお互いが「本当のこと」を言っているという前提で意思疎通を行っているはずだ。そうでなければ社会はたちまち立ち行かなくなってしまうだろう。日常が人狼ゲームだったら狂う!だから、人は他人が言ったことをある程度言ったそのままに解釈する。
 「あ、アンタなんか、だいっ嫌いなんだからね///」と言うセリフがあったとして、これを創作のキャラクターが言っていれば、「本当はそうではないんだな」と解釈する人が多いだろう。だが現実の人間が自分に向ってこれを言ってきたらどうだろうか?私は多分「本当に嫌われているんだな」と思ってしまう。現実でこんな回りくどい表現を使うのは「おかしい」。私の目の前に立っている人はおかしな人ではないはずだから、「相手は本当のことを言っているんだ」と解釈してしまう。

 私のブログを読んでいる人は私の文章を、ある程度の正直さを持ったものとして読んでくれていると思う。自分でもある程度の正直さを持って書いていると思っている。だが、実際のところはどうだろうか?過去の記憶を書くにあたって、補完や編集、脚色は意図的に行っている。「全部」を書けるわけではないからだ。
 しかし、そもそもその根本の記憶というものはどれほど正しいのか?自分でもおぼろげな記憶をたぐって書いているわけで、その感情は、その怒りや悲しみは、本当に存在していたものなのだろうか?本当はそんな「思い」は当時存在しておらず、掘り起こされた記憶の断片から「自分に都合の良い物語」を創作しているのではなかろうか?それを確かめることはできない。正直な人間が「本当のこと」を言っているとは限らない。
 今の思いですらもそうだ。わたしが今思っていることは本当に今わたしが思っていることなのだろうか?「わたしはこれが好きだ」本当に?「わたしはこれが嫌い」本当に?人は自分のことすら曖昧にしかわからないのに、どうして他者と分かり合うことが出来ようか?自分がわからないからこそ、他者という物差しとの交流を欲するのかもしれない?

 意思疎通というのはただでさえ難しいんだから、あんまりひねったりせずに自分が思っていると思っていることをそのまま伝えられたらいいんですどね。それは結構怖いから、ごまかしたり、おどけたり、逸らしたりしてしまう。

あきがくる

 前回の記事から一か月くらい間が空いてしまった。ちょっと飽きてきてしまったのかもしれない。まだ10記事も書いてないのにね。でも原因は飽きだけではない。いい感じのまとまった文章にしたいんだけどうまくまとめられていない下書きがいくつかある。書きたいことはそれなりにあるんだけどまとめるのにかなり苦労する。人とおしゃべりする機会があるとそれで気が晴れてしまうのでわざわざブログに書かなくてもいいかという気分になったりもする。SNSに書きづらいことを書くためのブログではあるが、ここにも書きづらいことはあるのでSNSとブログとおしゃべりで住み分けできているといえばできているのか。

 ともかく、こんな場末とはいえ自分はある程度読めるものにしたいとは思っており、そして、読めるものを書くというのは大変で面倒だなあということです。そもそもTwitterサブアカウントも気軽につぶやくためにつくったもののつもりだったのにどうしてもなんかちょっと凝ったことをつぶやこうとしてしまう。自分のおはようとかおやすみとかどうでもいいだろと思っているのでかまってもらうためにちょっと面白いこと言わなきゃなみたいな感じです。だからだんだんと面倒くさくなってくる。

 Twitterのかわりくらい気軽に記事を書けたらいいかなとは思っている。短めの記事が並ぶのは見栄えが悪い感じがして嫌なのだが、頭の中の考えをまとめるためには少しずつ出力していく必要があるなという感じがある。

 メモ帳に書きたいことの種みたいなのはいっぱいある。が、自分の中でのそれらどうしの関連性とか共通点を文章にまとめるのがめんどいんじゃ。なのであんまりまとめる感じじゃなくメモ帳の中身を多少整えつつ小出しにしていく感じにできるといいのかもしれない。

 

 

 飽きることについての話。自分はまあかなり飽きっぽいほうだと思う。一つのゲームを長期間にわたってやることはほとんどない。最も遊んだゲームでも300時間くらい。コツコツと何かを積み上げるということが苦手に思う。繰り返し遊ぶタイプのゲームは面白いと思っても、繰り返すこと自体に抵抗があるのか、急に冷めてしまうということが多い。めちゃめちゃはまっちゃうことはあってもずっとはまり続けてしまうと人生が深みにはまってしまうからね。飽きるというのは防衛機制なんですよ。

 大学の時に一度だけ参加したアニメの人材育成イベントで、あるアニメーターさんが「なにかに飽きたら別のことはじめて、それに飽きたらまた別のことして、またやりたくなったらもどってきてって、ぐるぐる回せばいいと思うよ」的なことを話していて、それがとても印象に残っている。いい考え方だなと思った。まあ飽きてない間の努力は必要だよねという話だが。

 あと、人間関係の話で、多分匿名掲示板のレスだったと思うんだけど、「友達とだんだん話が合わなくなってきたなと思っても、一時的に周波数が合わなくなっているだけで、また周波数が合う時期がまわってくるかもだから細くとも関係は切るな」的なことを言っている人がいて、それも好きな考え方だなと思った。なんというか、あんまりよくないものの中にたまに本当にいいなというものがあるので、わるいインターネットを見るのがやめられない。

 まあ、飽きたからといって頭から完全に消滅するわけではないし、飽きることを過度に恐れないようにしたい。

 

 あんまり要領を得ない感じになった。考えていることをそのまま打ち込んでいると、「まあ」をけっこうつかってしまう。自分は口でも頭でも「まあ」が多い。テキトーなので。

今日という日を美しい日にするぞの日

 今回は主に愚痴です。割とアレな内容なので注意。Twitterでの愚痴を許されてるのは強きものたちだけなので、ブログという壁に愚痴を投げつける。投げつけるぞ!

 

うお~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!

 

▶正直おばあちゃんの家がつまらない。2、3か月ごとくらいに片道一時間くらいかけて、父親の運転する車で行くわけだけど、割ともううんざりしている。おばあちゃんが嫌いなわけではない。むしろめちゃめちゃ優しい良いおばあちゃんである。だからこそだろうか。私はおばあちゃんの前で良い孫を演じなくてはいけない。当たり障りのないことを言って、両親とおばあちゃんの会話にウンウンと赤べこみてえに適当に相槌を打つあの時間!かなーり無駄だと思っている。
 ホントは今日、他にかなりやりたいこと、やっておかなければならないことがあった。ピクミン4も進めたかった。でも一昨日急に父親が「日曜日おばあちゃんとこ行くから」って。別についていくの断ればよかったんだけどさあ!おばあちゃんかわいそうじゃん!おばあちゃんかわいそうじゃん!?家で独り退屈してるおばあちゃんに孫の顔見せなきゃじゃん?でもね、おばあちゃんち、することが本当にない。ほとんど私以外で会話が延々回されてて特に発言を差し込む余地もないから「自分がここにいる意味あるか?」と毎回思っている。かといってスマホも気を使いながらいじらなきゃいけないし、ゲームなんてできるはずないし、自分は人前で絵描いたりとか作業するのもできねえし。3時間くらいなんもすることがない~。苦痛!父親の運転する車の助手席もかなり苦痛!何回も通った窓の外の景色をぼーっと見ながら何回も聞いた話に「そーね」「うーん」ってあいづちうってる時間!本読んだりイヤホンつけんのも申し訳なくて集中できないし!
 ……今、「お前が積極的に参加して他者を楽しませようとしないお客様気分だからつまんないんだろ」という存在しないアンチの声が聞こえた。うるせ~!11時に家出て帰るころには18時かい!日曜日の7時間が虚無への供物かい!帰り際に父親が「次はお盆に来るから」って、良い息子さんですね。プエ――――――ツ!!!!!!!!!!!めんど。

▶お盆、というかお彼岸とか死者関連のイベントに関しても思うことがある。おじいちゃんは私が一歳の時に亡くなったそうなので、私はおじいちゃんのことを本当に何も知らない。毎年その知らない人が納められているド田舎のお寺まで行って、知らない仏壇に手を合わせて神妙な顔をしている。毎回何でこんなことをしなければいけないのかわからないと思っている。かなり不謹慎なことを書くが、私は亡くなった人に生者の時間を使うのってどうなのという考えを持っている。確かに人が亡くなった直後にしばらく悲しんだり感情を整理したりなんたりは必要だとは思う。でもそのためにみんなで神妙な空気つくって決まった儀式何回もやってみたいなの、要るか?と思う。死んだことないから絶対に無い、とは言えないが死後の世界もほぼ信じてない*1。冥福などというものも存在すると思えない、死後に幸せも不幸せもないだろと思う。人が本当に死ぬのは誰かに忘れられたときじゃなくて生命活動を停止した時だと思いますよ。

 とにかく、もうこの世に存在しないものに気力とか体力とかお金とかを奪われるのがすげー嫌。しかしそれを避けようがなく、自分もいずれそれに加担しないといけなくなるであろうこともすげー嫌。自分が死んだあと葬式とかもしないでほしいし、遺体もなんか飼料とかにしてほしい。不老不死になりたい。
 でも、私は善良な人間なのでこのような考えはできるだけ隠しながら生きます。ご先祖さまはこのブログを見てるなら私に「コラッ!やめろ!」って言った方がいいですよ。

 なんかどうしても自分の根底にマッチョな思想の存在を感じる時がある。結局人はマッチョなしには生きられないのかもしれない。少なくとも自分は、基本的に生きることに対してポジティブではあると思う。生きている間が大切。死後評価されたからなんなんだ。遺伝子や作品が残ったとて『私』は死んでいるわけで、つまらん。

親しい人が亡くなったことが無いからこんな考えできるんだぞと言われてもその通りですねとしか言えない。

▶今日ではないけど、自分が一昨年にツイートしてたのと同じ場所の写真が先日めっちゃバズっててドス黒い気持ちになった。でも自分がツイートする前にも同じ場所の写真上げてる人いっぱいいたので私もn番煎じのうんちだった。いっぺんくらいバズってみてさあ、「バズっても何も意味ない」って言ってみたいよね~。俺はあさましい人間。

▶自分が人の誘いなどを断ることをあんまりしない(できない)のは、「行かなかったのに結局自分の怠惰さによってなんもできなかった」というオチが容易に想像できて、それよりはできなかったことを他者のせいにできる方が不快じゃないからかもしれない。
 私は多分実家を出た方がいい。でも私は親もなんだかかわいそうだと思ってしまっているのです。共依存から抜け出すのって難しいね。あーめんどい。

▶自分が万が一何かしらで有名になったとしてもこういった黒歴史的文章をクリーナーしないようにありたい。

▶結局この文章もやりたいことほっぽって3時間くらい書いてるわけだが。文章にすることで、虚無だった時間にもなにかしらの意味が生まれてくれ~。
 今日という日が無駄な日でなかったことにするために、ブログを書きます。

何かを暗喩している感じの写真



*1:オバケは怖いので完全に信じていないわけではない

歩いた

 欲しい本があったので徒歩一時間くらいのショッピングセンターまで歩いて行ってみた。近所に古本屋しか本屋がないから仕方がない。自転車でも良かったが天気がバチクソよかったので歩くことにした。自転車だととっさにスマホで写真撮りづらいし。とても暑かったので若干後悔しながらだらだらと歩いた。歩くこと自体は好きだけど時間を無駄にしている感じは否定できないので休日くらいしか散歩に行かない。不老不死になったら鹿児島から北海道までずーっと歩きたいと思う。不老不死にならなくても実現可能ではあるが、そこまでやりたいわけでもない。

 ショッピングセンターの本屋に欲しい本はなかった。別にAmazonでポチれば済む話なんだけど、Amazonを使うのに基本申し訳なさを感じる。運送業者も仕事なわけなのでそこまで気にしていないとは思うが、あんまり使いたくない。という時期がある。普通に使う時期もある。でもどこにもないんじゃしょうがないので使うしかない。

 帰りにしまむらでTシャツを買おうと思ってたけどすでにかなり歩いていたし暑すぎだったので一駅だけど電車を使うことにしたら逆方面のに乗ってしまった。一駅いったところで降りていったん改札を出たらセンター試験会場の最寄り駅だったので懐かしくなった。いったん出てすぐに入るのが恥ずかしかったので近くのファミマで時間をつぶしたり周辺を少しだけ歩いたりした。駅に戻って正しい方面のホームに立っていると、近くで座っている人が通話でプリキュアの話をしているのが聞こえた。周りを気にしないでプリキュアの話ができるのはいいなと思った。別に馬鹿にはしてない。
 あと、まったく脈絡がないが小学生と少しだけ会話をした。犯罪性はないです。子供と*1話すのがあまり得意じゃないので避けてるんだけど、会話が必要な時にはできるだけ愛想よくありたいとは思う。愛想がいいというかただのなれなれしい人になっていた感はある。それは初対面の大人に対してもそうなってしまうので、しょうがない。今度から子供と話す時も敬語にしよう。そしたら私のファンが「子供と話す時にも敬語を使ってるの、子供ではなく一人の人間として接している感じがして好き」ってコメントしてくれる。多分。
 家に帰った。今のうちに家の管理について知っといたほうがいいと思ったので親に芝刈り機の使い方を教えてもらって庭の雑草を刈った。スイッチを入れて振り回すだけだけが柄が長いのでそこそこ重い。たまにならやってもいいかくらいの労働だった。

 今日は別にブログのために行動したわけではないが、ブログに書くぞというモチベーションで一日の行動量が増えるんならそれはそれでいいことだと思う。

 

ドはつかない程度の田舎

おたま

 

*1:子供以外とも